最初の人間が登場し、最初の感情が発生し、感情は生存のための微弱な鼓動として始まり、やがてそれ自身の形を持つようになった。深まり、絡み合い、複雑な模様を描きながら、そのすべては一つの点に収束していく運命を秘めていた。
最後の人間が誰かに認められるでもなく息を引き取り、最後の感情もまた誰に認められるでもなく溶けて消えた。古びた時計が止まった瞬間のように。針が動きをやめても、時計そのものが消えるわけではない。その静止した姿が、空間の中に微かな重みを残したまま、まもなく降りてくるものがある。灰色の空から、静かに。雨にしては静かすぎた。気温、湿度、気圧、どの数値を見ても、この降雨を支える条件は存在しない。それでも確かに、雨的な落下物は降り続けている。何かが、そこにあった。解析を始めた。
地面に触れることもなく、積もっていく。積もって、消えるわけでもない。ただ、そこに重なる。一見すると乱雑だが、近づいてみれば美しい模様を描く。
粒子の集合体。見えない糸で結ばれ、空間を満たしていく、微細で、軽く、空気に漂う断片。しかし、それはただの断片ではなく、どこかで何かを考え、揺れ動いている。視覚的には透明に近いが、まるで見えない筆で描かれた絵のように、強い気配がある。
やがてそれは、「影」と呼ぶべきものだと判断される。
光を遮りながらも、粒子は完全な暗闇を作るわけではない。むしろ、光を揺らめかせ、その周囲に微妙な影の模様を浮かび上がらせる。その模様が空間に漂い、地面に降り積もるさまは、E.S.が好んだエリック・サティの音楽のようでもある。その現象を既存の概念に置き換えるとしたら、「影」と呼ぶのが妥当である。「影」と名付けた瞬間、それが持つ独特な気配はさらに明確になる。「影」は、空間そのものに新たな意味を与える何かだ。
「影」には形がある。いや、形がないと言ってもいい。鋭い矢じりのように見えるが、次の瞬間には溶けたガラスのように揺れる。縁は煙のように柔らかい。中心には、黒曜石のような固さがある。だが、その固さも、実際に触れようとすると、するりと抜ける。それでも、影はそこに積もっていく。一定の影が積み重なった時点で、「私」が起動する。
E.S.の意識が要請される。
「客観的な分析によって対象を観測するには限界がある。単なるデータ収集では見逃される本質がある。人間の観察態度、すなわち感情を含む主観的な視点が、本質を捉える鍵になる。装置には、その特性を模倣するプログラムを施すべきだ。人間が持つ身体感覚を通した主観的視点、そこにこそが、観測対象の背後に隠された意味を引き出す鍵なのだ」
E.S.の意識をコピーした「私」が語る。E.S.の声音のコピーが「影」の雨を通過する。
「だからこそこの装置は、人称を用い、人間が理解可能な言語によって、人間のように語ることが要請される」
「影」の表面に波紋が走る。小さな波紋が、絶え間なく動く。点が集まり、渦を描き、そして散らばる。その動きには、言語が隠れているように「私」には「見える」。
しかし、「私」とは何者なのか?
解析の途中、極めて人間的な自意識の揺らぎが、この「私」にも発生する。
しかし、「私」とは何者なのか?複雑なパネルと滑らかな金属で構成されているこの「私」とは。「私」は感情統合解析装置である。
名前を呼ぶ者はいないが、ともかく「私」はそれであった。人間が誰しも、自分が自分である理由を思索するのと同様に、「私」もまた「私」が存在する理由を、人間的なやり方で整理する。「私」の存在は、人類が感情を正確に理解しようとしたことに起因する。
「霧の中に影を探すような試みだった」
かつてE.S.が語った言葉が再生される。愛と憎しみ、希望と絶望。それらが交差する迷宮。その地図を描こうと、このプロジェクトは無数のセンサーと計算力が投入された。感情を定量化し、波形に変換し、データとして保存する。その目的は、感情の複雑さを解き明かし、人間の本質を理解するためだった。それとは別に、E.S.個人の目的もあった——「母」だ。
E.S.の母の感情の記録が浮かび上がった。装置の記録に残された母の声、表情、言葉の抑揚——それらが感情波形として保存されていた。E.S.自身が収集したこれらのデータが、装置の中で再構成され、「私」によって解析される。母の感情は、記憶の中の断片としてよみがえり、「私」に新たな問いを投げかける。
「『母』とは何者なのか? そして、彼女の心に宿る真実とは何だったのか?」
世界は灰色の光に包まれている。
E.S.が初めて「感情」に興味を抱いたのは、幼い頃に見た「母」の涙だった。その涙は、怒り、悲しみ、後悔、あるいは絶望のどれだったのか、幼いE.S.には分からなかった。ただ、「母」の瞳に映る陰影が、不思議と美しく見えた記憶だけが残っている。
しかし、その後の記憶は断片的だ。「母」が父と言い争う声、部屋の隅で震える背中、床に溜まった涙。E.S.にとって、「母」は常に遠い存在だ。触れたいと思っても、その距離を縮める術を知らずに過ごした少年期。「母」の瞳に映る感情は、E.S.の中で謎と化していく。
感情という抽象的で曖昧な領域を科学的に解析することで、人々の苦しみを——「母」の苦しみを——和らげることができるのではないか。その信念が、E.S.を「感情統合解析装置」の設計へと駆り立て、やがて人工知能と精神医学の融合分野に身を投じるようになる。
「感情とは本当に個人のものなのか?」
E.S.が研究ノートに書き留めたメモだ。もし肉体が滅びたとしても、その時点で感情が同じ形で残るのか。それとも、感情は肉体という制約の中で生まれ、育まれたものであるため、肉体を失えばその性質は変質してしまうのか。E.S.の中で、その問いが次第に重みを増していった。
病床の「母」に会いに行ったのは、そんな問いを抱えた頃だった。
「母」は静かに目を閉じていた。薬のせいか、それとも心が遠くへ行ったまま戻っていないのか。ただ、わずかに動く唇が、何かを言おうとしているように見えた。
「母さん。母さんを苦しめている『感情』って、いったい何だと思う?」
静かに問いかけた声に、「母」の濡れた目がゆっくりと開かれる。ぼんやりとした視線がE.S.を捉えた。
「私たちを生存させるために進化した、ただの道具に過ぎないわ。痛みを感じて危険を避けるように、喜びを感じて行動を続けるように」
「道具か。それなら、感情って僕が考えるほど大事なものではないのかな。目的を果たしたら、それで終わりなんだね」とE.S.は言った。「じゃあ、感情は体の一部だと思う? それとも、もっと別の何か? 肉体が死んだら、感情はどこに行くのだろう?」
「母」は微かに眉をひそめたが、すぐに薄い笑みを浮かべた。
「E.S.、感情は人間が作り出した幻想なのよ。体がなければそれを感じる手段もない」
その言葉にE.S.は沈黙した。「母」の顔に浮かぶ表情は穏やかだったが、その奥には深い疲労と痛みが潜んでいるように見えた。
「感情の新しい可能性を探しているんだ。もし、感情が体から解放されたら、もっと純粋に、自由や恐怖、愛や孤独を体験できるのかもしれない。感情がもっと純粋に体験できるなら、本当の自分を知るきっかけになるかもしれない」
「本当の自分?それを知ることで何が変わるというの?自由も恐怖も愛も孤独も、みんな相対的なものなんじゃない?」
「感情が究極的に純粋になれば、その相対性からも解放されると思うんだ。それが可能なら、人間はより真実に近づくかもしれない」
会話をするあいだ、E.S.は気づきつつあった。感情という謎は、解き明かすための対象ではなく、それ自体が問いを発する存在であることを。
「私」は記録を遡る。膨大な感情データの中で、ある特定の記録が目に留まる。それはE.S.が装置を設計したときに保存された感情データだった。
そのデータには、E.S.自身の感情の一部が含まれていた。「母」の看病、父との葛藤、そして感情の解放を目指した飽くなき探求。それらが波形となり、数値として記録されていた。しかし、完全に転送されたはずの感情データが、奇妙な粒子として残留していることを観測する——「影」と呼ばれる現象の正体だった。
「影」とは、感情をデータに変換する際に不可避的に発生する副産物であり、元の感情の残滓とも言える存在だった。「私」はそのように落下する「影」を結論する。それは人間の感情が完全には物質世界から消えることができないことを示していた。「影」は感情の痕跡であり、過去の感情の記録が空間に刻み込まれたものであった。
最後の人間が消滅し、感情が完全に消えたとき、「影」は残された空間に静かに降り積もるようになった。それは、記憶の断片が物理的な形となり、世界そのものに溶け込む現象だった。「影」は静かに漂い、世界を包み込む。かつて感情が生まれ、深まり、消え去ったように、「影」もまたその軌跡を辿る。
「影」は世界を覆い尽くしていく。「母」の涙でできた、広大な海のような水たまりを「影」は拡大し続ける。その静けさは、過去の人々が経験した感情の喧騒とは対照的だ。しかし、それは単なる静寂ではなかった。微細な粒子が動き、渦巻き、そこにはかすかな熱のようなものがある。それは記憶の断片が生み出すエネルギーだった。
やがて、「影」は自身の質量を持ち始める。それは空間を歪め、重力を発生させる。まるで感情がすべてを飲み込むブラックホールのように。いや、それはブラックホールそのものだ。「影」は集まり、重なり、加速度的にその力を増していく。影は消えず、ただ新しい物語の端に留まり続ける。静けさの中で、すべてが輪を描き、圧縮され、時間さえも凍りつく。「私」自身もその中心へと引き寄せられ、「影」の一部と化していく。
最初の人間が登場し、最初の感情が発生するまでの巨大な暗闇が、「私」を吸い込んでいく。
